ウェンディーズ創立者R・ディッド・トーマス
ウェンディーズの創立者であるR・デヴィッド・トーマスは、十八歳で軍隊に入った。ドイツに駐留していたころ、自己開発の本を読むようになり、その中でヒル博士の 『成功の法則』 プログラムと出会った。そして、このプログラムによってデーブの若い野心は目標を持つようになった。その後、ナポレオン・ヒル・プログラムを実践して、「金持ちになりたい。幸福な家庭を築きたい」と決心したのだ。
彼は、一九三二年七月二日に、カジノで有名なアトランティック・シティで生まれたが、すでにそのときから不幸が始まった。
両親が誰ともわからないまま養父母に引き取られたが、その養母も、彼が五歳のときに亡くなってしまったのだ。以後、幼少にして、職を探して州から州へと渡り歩く養父とともに流浪の生活を送るようになる。
彼は十二歳になると、テネシー州ノックスビルの食料雑貨店で配達の仕事を始めたが、休暇のことで勘違いがあり、店をクビになった。そこで今度は、ヴァルグリーンズの店内にあるソーダ水売り場で働き始めたが、十六歳未満だということがバレて、またクビ。次にまた年齢をごまかして、食堂で働き始めたのである。
そこは十二時間シフトの職場だったが、今度はクビになるまいと、誰よりも熱心に働いた。
「二回もクビになっていたので、養父が冗談で、“オレが一生面倒を見てやらなきやならんのかなぁ”と言ったものです。これが私にはこたえました」
ナポレオン・ヒル博士の言葉どおり、トーマスは「逆境の中に潜むそれと同等以上の利益の種子」を見つけた。
「まだ幼くして逆境を経験したことによって、私の中に負けん気が芽生えました。お金の大切さを知り、それだけでなく、物事を達成したときの充実感の大切さも知ったのです」
十五歳のとき、彼は養父とともにインディアナ州フオートウェインに移った。トーマスはここでホビーハウス・レストランの皿洗いを始めた。
やがて、また引っ越すことになったとき、トーマスは養父から独り立ちしてこの土地に落ち着くことを決意した。いよいよ自分の人生を切り開くときが来たのだ。
彼はYMCAに入学したが、十年生のときに落第してしまった。毎夜遅くまでレストランで働いていたため、疲れきって勉強ができなかったからである。それに学校に通うよりも、実際に現場で働くほうが、レストラン・ビジネスはずっとよくわかる、とも思ったのだ。
「単純なことです。クラブをいつも清潔にしておくこと、おいしい料理を出すこと、迅速なサービスを心掛けること。これだけです」
ちなみに、後にレストラン・ビジネスに復帰したときにも、彼はこのやり方を踏襲した。
やがて、兵役を終えたトーマスは、ホビーハウス・レストランに復職した。しかし、今度は皿洗いではなく、スナックの調理を任された。そこで、ウエイトレスをしていたロレインと知り合い、一九四五年に結婚する。
あるとき、レストランの経営者がケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズを買って店を出した。しかしまもなく、四軒の店が経営難に陥った。そこで経営者は、もしトーマスが二〇万ドルの赤字を完済してこれらの店を立て直したら、店の株の四五パーセントを与えよう、と言いだした。
この提案に、トーマスは飛びついた。妻と四人の子どもを抱えた彼が、夫婦合わせて週一三五ドルの収入になる仕事を投げうって、破産しかかった店の再建に乗り出したのである。それからのトーマスは、ナポレオン・ヒル・スピリットで店の再建に没頭した。
まず、一〇〇品目のメニューを大幅に減らした。メニューはチキンとサラダだけにし、根気よく宣伝を続けたのである。そして、チキンパケットをラジオ局に持ち込み、バーター取引でコマーシャルを放送させた。世界中でおなじみのチキンパケットは、このときに、トーマスが発明した商品である。
こうした努力が実を結び、経営は黒字に転化した。彼は一九六八年に、この店をケンタッキー・フライドチキンに一五〇万ドルで売り戻した。
しかし、ウェンディーズのやり方をマニュアル化して、各州、各地にフランチャイズを売るというアイディアが大当たりしてしまった。二〇年経ったいま、ウェンディーズは、世界三〇カ国に店舗を持つワールド・ビジネスに成長しているのだ。
晩年を迎えたトーマスは、テレビCMのおかげで「アメリカ一知名度の高い人」になった。しかも、「与えられた恵みはそれ以上にして世の中に返す」という信念のおかげで、「アメリカ一尊敬されている人」にもなったのである。数多くの慈善事業に参加した経験をまとめた『デーヴのやり方』を出版すると、その収益はナショナル・アドプション・アウェアネス(里親キャンペーン) に寄付しているのである。



